
コザ暴動(コザぼうどう)は、1970年12月20日未明に沖縄市(当時は「コザ市」)で起きた大規模な反米騒動です。米軍による占領支配に対する住民の怒りが爆発した象徴的な事件であり、戦後沖縄の基地問題・住民感情・独特の社会背景を如実に物語っています。
🔥 コザ暴動の概要
- 日時:1970年12月20日 午前1時頃から数時間
- 場所:沖縄市(旧コザ市)中心部、ゲート通り周辺(現:中央パークアベニュー付近)
- 発端:米兵による交通事故と、当局の不誠実な対応
- 参加者:市民 約5,000人(推定)
- 被害:米軍車両約80台が焼かれ、数十人が負傷。日本人・米兵の死者はなし。
🧨 事件のきっかけ
米兵が沖縄人を車でひき逃げ
- 1970年12月20日未明、酔った米兵が車で地元住民をひき逃げする事故が発生。
- この加害米兵は憲兵(MP)により保護され、逮捕も起訴もされず釈放される。
- 当時、「治外法権(地位協定)」により米兵は日本の裁判権外だった。
怒る市民たち
- 事故現場には市民が集まり始め、怒りが膨張。
- 米軍車両に対して石や瓶が投げつけられ始め、MPも現場を離脱。
暴動の拡大
- 群衆は近くのゲート通りにあった米軍車両や施設に火を放つ。
- まるで「炎のカーニバル」のように、街が赤く燃え上がる夜となった。
🔎 背景にあったもの
背景要因 | 内容 |
---|---|
米軍による治外法権 | 日本の法律が適用されず、米兵の犯罪が裁かれないことが多かった |
沖縄戦後の抑圧的支配 | 「銃剣とブルドーザー」による土地接収、貧困と差別 |
基地経済の矛盾 | 基地に依存しつつも、被害を受けるジレンマ |
本土復帰を前にした不安と怒り | 沖縄返還(1972年)を控え、将来への不満が渦巻いていた |
🧠 コザ暴動の意味・象徴性
- 「基地に依存せざるを得ない沖縄」が、「基地に怒りを爆発させた瞬間」。
- これまで沈黙していた住民の感情が表出した、一種の民衆蜂起。
- 沖縄の戦後史において、最も象徴的な民衆行動のひとつと評価されます。
- しかし、日本政府・米軍はこの事件を「単なる暴動」として扱い、根本的な政策転換はなされませんでした。
コザ暴動後の米軍の対応は、一言で言えば「警備の強化と沈静化の図り方」でした。しかしながら、根本的な原因への対処(基地問題や司法の不平等など)はされなかったため、沖縄の不信感はむしろ深まることになります。
🪖 暴動後の米軍の主な対応
治安体制の強化
- 米軍は直後からゲート通り周辺の警備を強化。
- 米軍憲兵(MP)と地元警察による合同パトロールが強化されるようになった。
- 米軍関係者に対し、「夜間外出禁止令」を出したケースも一部で報告されています。
「米兵の行動の自粛」呼びかけ
- 米軍内部で、兵士に対して「地元住民への配慮」や「慎重な行動」を求める通達が出されました。
- ただしこれはあくまで内部文書レベルで、制度的・法的な変化はなし。
被害調査と現場の修復
- 焼かれた車両や施設の損害額を米軍が独自に算出し、一部修理や再配置を実施。
- しかし、日本政府や地元自治体に対する謝罪や補償は公式にはほとんど行われていません。
米兵による加害事件への姿勢:変わらず
- コザ暴動のきっかけとなった「交通事故加害の米兵」も、結局裁かれることなく釈放されたまま。
- これは、日米地位協定により、米軍関係者が公務中に起こした事件は日本側に裁判権がないことが理由。
- 地元住民の怒りと不信感がさらに増幅されました。
🌀 結果としてどうなったか?
項目 | 内容 |
---|---|
表面的な対応 | 警備強化・兵士の行動制限など「対症療法」中心 |
根本的な変化 | 法制度(地位協定)や基地政策への反映はなし |
住民感情 | 不満と不信がむしろ強まった |
政治への影響 | 「沖縄返還(1972年)」を前に、沖縄の声が本土にも波及するきっかけに |
💭 沖縄住民の受け止め
- 「怒りをぶつけたことで何か変わった?」という問いに対して、「何も変わらなかった」と語る住民の声が多い。
- 一方で、「あの夜が沖縄の“目覚め”だった」とする意見もあり、精神的な自立や抵抗の象徴として語り継がれています。
🧭 地位協定の壁
コザ暴動以降も、米兵による事件や事故はたびたび発生しましたが、そのたびに問題となるのが「日米地位協定」です。
▶ 地位協定とは?
- 米軍関係者が日本国内で犯罪を犯しても、「公務中」であれば米国側に一次的な裁判権がある。
- 「起訴前の身柄引き渡しができない」「米軍基地内の捜査が難しい」など、日本の主権が制限される形になっている。
📝 まとめ
米軍の即時対応 | 警備強化・通達・現場復旧 |
制度的対応 | 地位協定の維持=根本問題の放置 |
沖縄側の反応 | 「怒りは爆発したが、変化はなかった」という虚無感 |
歴史的評価 | 単なる暴動ではなく、民衆のレジスタンスの象徴とされる |
📸 エピソード・象徴的な描写
- 放火された米軍車両が「ボーリングのピンのように並び燃える」という光景。
- 一部市民がギターを持ち出し、「ロックの音に乗せて怒りを表現した」と語る証言もあり、音楽文化との結びつきも。
- 事件後もゲート通りでは、しばらく米兵が夜間に出歩かなくなったといいます。
🎬 映像・書籍で学びたいなら…
- 映画:『ひまわり 〜沖縄は忘れない あの日の空を〜』
- ドキュメンタリー:NHKスペシャル『沖縄 〜コザ暴動の夜〜』
- 書籍:
- 『コザ暴動 — 70年、夜明け前の沖縄』川満信一
- 『沖縄の怒り コザ暴動を読み解く』比嘉政夫
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